純粋日本人の数学


 最近,奈良へ行く機会があったので,岡潔のお墓によってみた。岡潔というのは伝説の数学者であり,多変数複素関数論の研究で人間業とは思えない仕事をした人である。1960年代には多くの本を著したので[1] 年配の人は記憶にあるだろうが, 一般には知るひとは少ないかもしれない。しかし,ひとたびその数学に接すると人を魅了してやまないものがある。複素関数論のエッセンスは解析関数の定義にある。よく知られているように一変数複素関数に対しては解析接続の原理により関数の定義域を広げていくことができる。それに対し二変数以上の多変数の関数においてはその関数が正則であるような領域を勝手に決める事ができないのである。多変数複素関数論における正則な領域の問題は,一変数の複素関数とは全く様相が異なっている。この正則領域の問題は20世紀の初め頃に認識され出したが,あまりに難しいために岡潔のためにとっておかれたのである。 岡潔は生涯に10編の論文をかいた。 最後の一編はつけたしのようなもので実質的には9編の論文を書いた。 これは今の研究者だけでなく当時の研究者の論文数と比べても異常に少ない。しかし,この9編の論文はすべてが珠玉の傑作 であり,これらが一人の人間の手によって成ったというのが信じられないくらいである。戦後,日本の数学者達が神様のように見ていた数学者のジーゲル[2] が,『オカとはブルバキのように数学者の団体の名前だと思っていた』,と言ったという話も伝わっている。ジーゲルやブルバキの主要メンバーであったヴェイユ[3], カルタン[4] らはわざわざ奈良まで岡潔を訪ねた。

 それではどうして岡潔はそのような素晴らしい論文を書くことができたのであろうか。 これは彼が彼のすべてを数学に注ぎこんだ結果である。37歳のとき広島文理科大の教員を辞して郷里に帰り、今でいうフリーターとして数学の研究に専念した。49歳 で奈良女子大に勤務するまでこれは続く。その間,自らの田畑を売り,奨学金をもらいながらしのいできたのである。後年,仏教に帰依したが,これは数学の壁にぶつかったからではなかろうか。”歩いて海の上を渡る”ような難しい問題に直面しわらをもつかむような気持だったのではないか。すべてが数学のためであった。岡潔は寝ている時以外は常に数学をしているという伝説も生まれた。矢野健太郎氏の『ゆかいな数学者たち』では面白いエピソードを紹介している。矢野氏がフランスに滞在中にフランスの数学者から『岡は,起きてから寝るまで,数学以外のことは何もしな いということを聞いたがほんとうかね』と聞かれた矢野氏が『ほんとうだ』と答えると,その数学者はそそくさと席を立って研究にむかったということである。岡潔が広島文理科大をやめたのは,授業があまりにでたらめであると学生から苦情が出たからであるらしい。しかし,これは朝永振一郎,湯川秀樹らの随筆に出て来る岡潔像とはあまりにちがいすぎる。『しかし,この退屈な教室の中にも,沈 滞の中にもときどきふき込んで人々を生きかえらせる冷風のように,新鮮な空気のただよう時間もあった。それは岡潔先生と秋月康夫先生の数学演習の時間であった。』(朝永振一郎『わが師わが友』講談社文庫)というのが大学を卒業して 間も無いころの姿であった。三十半ばで最初の論文を書き,広島文理科大で教鞭 をとっていたころは,第二論文に没頭していた頃であった。そのために,講義の方は片手間になっていたのであろうか。 岡潔といえども準備もなしにふらふらと 出かけて行ってはまともな講義はできなかったのである。そこで,研究のために大学をやめたのである。それは,第二論文ができた頃であったと思う。相当の自信がなければできないことであろう。 そこまでできる研究対象を得ていたと言うこともでき,うらやましいことでもある。[5]

 表題の純粋日本人というのは,私の人生観という随想で自らのことを形容していることばである。日本民族のいろどりとその人の心の色どりが同じ人のことを純粋日本人と言うようである。岡潔は悟りきった人間として,高い所から語っているために普通の人にはわかりにくいところがある。しかし,インスピレーションを得て発見をし,研究を進めていった頃のことを述べるくだりは,ポアンカレなどの話をはるかに凌ぐものがあり非常に面白い。岡潔が純粋日本人としてあげる一人に芥川龍之介がいる。芥川についてはいろいろと書いているが,ここでは『戯作三昧』を取り上げてみよう。 この小説は滝沢馬琴に託して自らの思いを書いたものである。平凡な一日をかき ,一日の終わりになって集中して創作にうちこんでいく姿がかかれている。全体 で40ページほどあるが,集中している馬琴をかいているのは,最後のたった2ペー ジである。その前の38ページは創造のための心の準備に費されている。 人間,このように集中して仕事をするのは非常に難しいことなのである。このことを芥川が述べ,岡潔はそれに共鳴している。

 米長九段の語る岡潔のエピソードを書いておこう。米長九段は若い頃,岡潔の講 演会が開かれるのを知り,出かけて行ったのであるが,なんと講師が現れなかっ た。そこで,プロ棋士が講演会場に聞きにきているということで,主催者は急遽 米長さんにピンチヒッターをお願いし,代わりに将棋の話をしてそこは無事におさまった。後日,そのことを知った岡潔は米長さんを自宅に招き,なんとそこで 講演で話すはずだった話を初めから終わりまで,米長さんを相手にしたということである。そのお礼として,米長さんは岡潔を次の名人戦に招待したそうである。 大山ー中原戦であった。両名人の対局を観戦し,なにか感にうたれたのか,岡潔は庭へ出るとおもむろに地面に何かを書き始めた。後ろからのぞいてみるとそれは 数式であった。米長さんは写真に撮っておけばよかったと言っている。

 岡潔のお墓は奈良公園の南の方にある白毫寺(びゃくごうじ)という小さいお寺 の裏の墓地にある。白毫寺へ行くにはまず新薬師寺へ行く。近鉄またはJR奈良駅 から市バスの市内循環線に乗り,破石または高畑で降りて,案内板に従って新薬 師寺まで行く。新薬師寺南門前から白毫寺方面へ案内板に従っていくと,白毫寺 の参道へはいる。”東海自然散歩道”という標識があるので,右折して白毫寺の裏へまわると,墓地がある。納骨堂のすぐ上の二段目の一番端に,岡潔のお墓は ある。納骨堂のすぐ左にある細い道を上っていってもすぐにみつかる。 岡家代々の墓と書かれた墓石の側面には俳句

春なれや石の上にも春の風     石風

が刻まれている。石風とは岡潔の俳号である。いろいろと解釈があるかもしれな いが,単純に春がきたことを喜ぶ歌であると思っていいだろう。春宵十話のその他(『日本のこころ』)という段落にこの句がでている。岡潔は昭和53年3月1日 に亡くなっており,享年78歳であった。春雨院梅花石風居士と刻まれている。妻みちはその三月後に亡くなっている。数学に命を燃焼させた純粋日本人を前にしてはただ合掌するのみであろう。

 多変数解析関数論とは岡潔によって創造された数学の世界である。[6,7] 一変数関数論とは全く別の世界がそこにはある。例えば,一変数関数論では解析 接続の原理により,一変数の解析関数が存在する世界を実際につくることができる。それは,リーマン面とよばれるものであり,リーマン面は一変数解析関数の『母なる大地,その上にこそはじめて諸関数が生育し繁茂しうる大地とみなされなければならない』[8]のである。しかし,多変数解析関数論にはそのよ うなものは,今のところ存在しない。存在したとすると,それがどのようなものになるか,筆者には想像がつかない。一次元の複素多様体がリーマン面であるという言い方をすることもあるが,これには注意を要する。一次元複素多様体の上には確かに解析関数が生息しているが,二次元以上の複素多様体は決してその上に解析関数が生育するような大地にはなりえない。リーマン面の単純な拡張で、 多変数関数が存在するような空間はつくれないのである。多変数関数が生育し繁茂するような空間はどのようなものであるか,数学者が明らかにしてくれることを心待ちにしているところである。

 岡潔は創造の三要素は,想像力,連想力,構想力であると言った。日本人の独創的学者の一つの例として岡潔を見ることができると思う。我々研究者も岡潔から学ぶことは多いと思う。[9]

参考文献
[1] 『春宵十話』(毎日新聞社、角川文庫)
 『風蘭』(講談社現代新書)
 『紫の火花』(毎日新聞社)
 『春風夏雨』(毎日新聞社、角川文庫)
 『対話 人間の建設』(小林秀雄との対話)(新潮社)
 『月影』(講談社現代新書)
 『春の雲』(講談社現代新書)
 『日本のこころ』(講談社)
 「一葉舟」(読売新聞社)
 『曙』(講談社現代新書)
 『神々の花園』(講談社現代新書)
 『岡潔集』(学研)など。

[2] C.L.Siegel. 著書 『Topics in Complex Function Theory』 I,II,IIIが有 名。矢野健太郎の『ゆかいな数学者たち』(新潮文庫)の中で誰もいない講義室 の中で講義をした逸話が紹介されている。
[3] A.Weil. ジーゲルと同様に,当時の日本の数学者にとっては神様 のような存在であった。哲学者シモーヌヴェイユの兄。代数幾何の第一人者であ り『 Foundations of Algebraic Geometry』という本を書いたが,この本はグロタンディックのスキーム理論の出現により一瞬にして古典となった。
[4] H. Cartan. 幾何学のエリーカルタンの息子。後にフィールズ賞を受賞したセールと共に岡の論文を解読し、岡の理論を層の理論によって記述した。
[5] この頃のことを次のように書いている。『私は一九三二年に帰国して 広島の大学に奉職した。問題を決めてから四年間、それについていろいろ考えてみたが、 どうしても、どう手をつけて行ってよいかわからない。学校における私の評判はだんだん悪くなっていった。私が少しも研究を発表しないし、講義も少しもまじめにやらないからである。学生に一度ストライキされたことさえある。しかし、私はどうしても力を分散させる気にはなれなかったのである。』(『日本のこころ』(講談社文庫))
[6] 岡の理論を正面から見据えた本が最近,出版された。 西野利雄著『多変数函数論』(東京大学出版会,1996)。
[7]一松信著『多変数解析函数論』(培風館)の記述によって 岡潔は単なる”プロブレムソルバー”であると広く認識されているかもしれないが,これは正しくないと思う。岡潔は正則領域の問題が解析学の大きな高峰であると自ら認識し,その高峰にいどんだのである。
[8] H.Weyl『リーマン面』(田村二郎訳,岩波書店,1980)。
[9] 岡語録をいくつかあげておこう。

『私は数学の研究に没入しているときは、自分を意識するということがない。』

『知的独創はつねに知と未知との境において起こるのである。これが容易に起こらないのは、知の麻痺が非常に深いからであると思う。』

『実際、微温的なものでは役に立たない場合がある。少なくとも数学についていえば、 オリジナルとコピーとは全く異なっている。コピーは紙とインキで作れるが、オリジナルは生命の燃焼によってしか作れない。灼熱した情熱や高いポテンシャルエナジーがなければどうにもならないのである。』


(補遺)
(多変数解析函数について)
 多変数の複素函数は、コーシーの積分公式など一変数の複素函数に対して成り立つ式を単純に拡張したものが成り立つこともありますが、多変数特有の性質も数多くあります。その中でも重要なことが、正則領域の問題です。ある領域Dで正則な函数が存在しそれより広い領域では正則でないとき、領域Dを正則領域といいます。すなわち、Dにおいて正則で、Dの境界を自然境界とするような函数が存在する時、Dを正則領域と言います。一変数の場合には、任意の領域をとってきても、その領域で正則でその外では正則でないような函数が存在し、任意の領域が正則領域となります。ところが、多変数の函数においては、ある領域で正則な函数が、より広い領域でも正則になることが発見され、正則領域とはどのようなものかを明らかにすることが最重要な課題として認識されるようになりました。CartanとThullenにより単葉な正則領域は正則凸な領域であることが示されました。(ここでは単葉な領域のみ考えることにします。)領域Dの中の任意のコンパクト集合Kに対して、Kの有界被(または有界包)とよばれる領域もコンパクトの時、Dは正則凸であると言われます。正則領域というのは正則凸と同じと言ってよく、幾何学的に凸な性質が正則領域にはあることになります。これは、正則領域を別の言葉で言い換えたということになります。正則領域を本質的に特徴づけるものは、擬凸性です。 擬凸性にはいろいろな定義がありますが、岡により定義された擬凸性をもつ領域を岡-擬凸といいます。Hartogsが、「領域Dが正則領域ならば擬凸である」ことを示し、正則領域について重要な結果を得ました。すると、自然にHartogsの逆の問題が生じてきます。すなわち、「領域Dが擬凸ならば正則領域であるか」という問題です。これは、Hartogsの逆問題ですが(岡によりこのように呼ばれました)、Leviが最初に予想したことからしばしばLeviの問題と呼ばれます。岡により最終的に証明されたことは、「岡-擬凸な領域は正則領域である」という命題です。ここに、正則領域の問題が一応の決着をみました。

 
 
  Condensed Matter Physics Group: Nanoelectronics Research Institute