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『天野君は十三段』
幕末頃の将棋の世界に、棋聖と賞された天才棋士天野宗歩がいた。どこの
世界でも天才と言われる人は必ず現れる。その天才達の中でも史上一番強いのは誰か、
昔の天才が今に生きていたらどれくらいの実力であろうか、
は誰でも興味あることであろう。
将棋の世界で誰が史上最強かとなると答えるのは難しい。羽生さんであろうか、
大山康晴、あるいは絶頂期の升田幸三か。
それはさておき、天野宗歩の実力は現代ならどれくらいであろうか。
棋譜が残っているので将棋の力のある人なら、天野宗歩の実力を評価できるであろう。
しかし、実際に対局して指すことはできないので、あくまで実力の評価にとどまる。
以前(といってもかなり前だが)、これに関して面白い話を聞いたことがある。
短くまとめると次ぎのようであった。
「升田幸三は天野宗歩を評して『天野君は十三段』と言ったが、プロの四段くらいの人は、
『天野宗歩は現代に生きていても四段くらいはさすでしょう』と言った。
奨励会の初段くらいの人によると、『まあ、初段くらいは指しますかね』
ということであった。」
記憶が正しければこのような感じであったが、この短い挿話は非常に興味あることを示している。
誰でもすぐに気づかれることと思うが、
"天野宗歩を評価した人達は、彼の実力はこれこれこのくらいであろうと言いながら、
実は自分自身の実力を言っている"
のである。評価している人達は素人ではなく、
将棋に関してはプロかプロの卵達であることも重要である。
これは自分の能力を越えたものの評価の難しさを示している。
升田幸三が十三段(これは名人より上であろう)と評したのは、
天野宗歩の将棋の中にそれだけのものを見い出しただけでなく、
自分自身の将棋もそれくらいのものと思っていたのではないか。
四段くらいでは名人の力などはわからないから、まあ四段くらいでしょうと言うしかないのであろう。
自分の力を越えたものをいかに評価するかという問題がここにあり、
最大限に評価したとして自分と同程度、なのである。
これは、法則と言ってもいいくらいのものであろう。
このようにプロであっても、『能力のポテンシャル』あるいは『理解のポテンシャル』
とも言うべきバリアーが厳然とあり、それを越えたらもう評価できないのである。
これは将棋に限らずあらゆる世界で共通する普遍的現象である。
このような壁の存在は常に頭に入れておく必要があるであろう。
能力を越えたことであっても、コメントでは壁を越えることができる。
一つの例を紹介しよう。以前、NHK ラジオで放送していた講演会で、
数学者の広中平祐氏が話していたことである。まだ、
代数多様体の特異点の解消を解決する前のことであるが、
日本で開かれた学会において講演する機会があった。
そこで特異点の解消問題について現状を語り、
今のところ特異点解消はできていないけれども、このような仮定をおいたら示せるかもしれない、
あるいはもっと別のことを仮定すれば証明できるかもしれない、
ざっとこんな感じことを話した。
ところが、それに対して代数多様体の専門家ではない数学者が異議を唱えた。
その数学者とは岡潔であったが、
岡潔は『あなたの方法では問題を解くことはできない』と断言した。
岡は続けて
『あなたのようにいろいろな仮定をおいてはかえって問題の見通しを悪くする。
問題というものは、一番解きたい理想的なものを考えれば自然と解けるものである』、
というようなことを言った。
広中さんはその頃は特異点解消のトップランナーであったから、高名な数学者とはいえ、
この分野では素人に厳しいコメントをされてかなり気を悪くしたのであったが、
後日そのように仮定を減らしてみたら確かに問題が解けたということであった。
これは自分の能力の壁を超えて正しいコメントをした例である。
このように評価するにあたって『コメント力』は重要である。
一流の学者なら深い経験に裏打ちされたコメントにより、
(あたかも量子力学的粒子がトンネル効果により障壁を超えるように)
『能力の壁(ポテンシャル)』を超えることができるのである。
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