国立研究開発法人 産業技術総合研究所

研究業績の概要

位相制御レーザーパルスによる量子効果を用いた分子配向操作技術の研究

①  研究の背景と目的

 レーザー光によって物質の量子状態および量子ダイナミクスを直接操作し、物性や機能をコントロールしようとする量子制御(またはコヒーレント制御)に関する研究が近年精力的に行われている。ランダムな熱運動によってかき消される前のコヒーレント状態にレーザーを作用させ、光と物質のコヒーレント相互作用を通して物質を制御しようというものである。本研究の目的は、波長の異なるレーザーパルスを重ね合わせその相対位相を精密に制御した位相制御レーザーパルスを用いて、通常のレーザー光では困難な分子操作技術を開発するとともに、位相制御レーザーパルスを用いた物質制御や計測手法の新しい方法論を提示することである。

②  原理

 波長の異なるフェムト秒光パルスを重ね合わせその相対位相を精密に制御した位相制御レーザーパルス(時間幅;130フェムト秒, 波長;400nm+800nm, 光強度;1012~1013W/cm2)による気体分子の異方性光トンネルイオン化の量子制御と、その結果として起こる分子配向操作(配向分子選択イオン化)を世界に先駆けて実現した[H. Ohmura et al., Phys. Rev. Lett. 92, 113002(2004), Phys. Rev. Lett. 96, 173001 (2006)]。気体分子の配向操作は、分光計測においてランダム配向による情報の平均化を除去できるため情報量が飛躍的に増大することから、非常に重要な分子操作技術である。

 以下に位相制御レーザーパルスによる異方性光トンネルイオン化の量子制御と配向分子選択イオン化の概略を述べる。レーザー光の基本波(周波数:ω)とその第二高調波(周波数:2ω)の相対位相差を精密に制御し重ね合わせた(ω+2ω)位相制御レーザーパルスを考える(図1)。

位相制御レーザーパルス相対位相差がゼロまたはπの場合、その光電場波形は正負で光電場振幅の大きさが異なるために非対称な形状となり、その非対称性は相対位相差を0からπにすると反転させることができる。(ω+2ω)位相制御レーザーパルスは正負を区別できない通常の単色レーザー光の光電場とは異なり静電場的な方向性が生じるため、従来の光とは本質的に異なる性質を示す。
 このような非対称光電場で特徴づけられる強い位相制御レーザーパルスで気体分子を非共鳴イオン化すると、分子はトンネルイオン化する。分子のトンネルイオン化記述する理論(分子ADKモデル)によると、(1)トンネルイオン化確率は、トンネルイオン化する瞬間の光電場振幅が大きいほど高くなる。(2)最外殻軌道波動関数(HOMO)の波動関数振幅の大きい場所ほどポテンシャル障壁からの染み出しが大きくなるため、トンネルイオン化確率が高くなる、ことが指摘されている。非対称なHOMOと(ω+2ω)位相制御レーザーパルスの非対称光電場が相互作用すると、波動関数振幅の大きい場所から非対称光電場の最大の方向に異方的なトンネルイオン化が起こる確率が高くなるため、トンネルイオン化確率に分子配向依存性が生じる(図2)。その結果、ランダム配向の気体分子集団の中から(頭と尻尾を区別した)配向分子だけが選択的にイオン化される。
 このように、非対称な光電場を持つ位相制御レーザーパルスと非対称分子の波動関数との高次非線形相互作用によって異方性光トンネルイオン化が起こり、通常のレーザー光では困難であった頭と尻尾を区別した配向分子選択的イオン化が起こることを、独自に論理的に推論し実験で証明した。

③  具体的な研究成果

 これまでに、分子の波動関数(HOMO)を系統的に変化させた実験や位相制御レーザーパルスの波長とパルス幅を変化させた実験から、異方性トンネルイオン化による配向分子選択イオン化が広範囲な条件で起こることを明らかにしてきた。[H. Ohmura et al., Phys. Rev. A 74, 043410(2006), Phys. Rev. A 77, 023408(2008), Phys. Rev. A 77, 053405(2008), Phys. Rev. A 83, 063407(2011), Phys. Rev. A 92 053408 (2015)]。
この手法は以下の3つの特徴がある。(1)通常のレーザーでは困難とされていたと気体分子の頭と尻尾を区別した分子配向操作を量子制御の手法を適応して実現している。(2)光の相対位相差(0,π)のみで右向き左向きの分子配向選択が可能である。(3)共鳴遷移を必要としないため光の波長を変える必要がなく、また物質の種類に依存せず適応範囲の広い汎用的な手法である。
 本研究は、JSTさきがけをはじめ9つの研究支援を受け、研究計画の立案、実験の遂行、成果発信を行ってきた。これらの研究業績は2010年文部科学大臣表彰賞(若手科学者賞)および2010年分子科学会奨励賞を受賞していることから明らかなように、高く評価されている。
 その他の展開として、気体、液体、固体、固体表面など様々な物質系に本手法を適応して、位相制御レーザーパルスによって引き起こされるコヒーレント制御法の探索を行っている。新現象の探索を通して、位相制御レーザーパルスを用いた新しい物質操作の新しい方法論を提示するとともに、位相制御レーザーパルスによる物質操作技術を応用した新しい計測技術の開発や従来計測技術の質的な転換を目指し、基礎研究から計測装置の開発まで連続的な研究を行っている。