> 産業技術総合研究所 > 一杉裕志 > 脳のアルゴリズムに関する取り急ぎメモ > . 2013-05-15 更新)

感情や欲求の正体

「感情や欲求の正体は全くわかっていない」と
考えている人がけっこういるようですが、それはとんでもない間違いです。
神経科学の分野では情動は昔から重要な研究対象で、
いろいろなことがわかっています。

ただし、情動の神経科学的な知見と機械学習と進化論的解釈をからめた
解説はあまり見かけません。
これらの視点のどれか1つでも欠けていれば、
感情が不合理で不可解なものに感じられるのも無理はないでしょう。

以下に、感情と欲求の正体について、取り急ぎ極力簡単に
一部私見を交えて説明します。


概要:
・情動は動物が子孫をより確実に残すために作りこまれている機構である
・欲求の正体はその欲求に関連する快情動と不快情動である
・動物が不快情動を避け快情動を求めるのは強化学習の機構による
・条件刺激と情動を結びつける場所は扁桃体である
・抽象的な概念と情動が結びつくのは、大脳皮質から扁桃体への入力があるからである
・人間ならではの感情や欲求もメカニズムは同じである
・人はなぜ笑いなぜ泣くのか
・役に立つロボットが持つべき欲求
・さいごに


◆情動は動物が子孫をより確実に残すために作りこまれている機構である

情動は脊椎動物にとって
子孫をより確実に残すために作りこまれている合理的な機構です。

例えば「恐怖」の情動は危険から個体を遠ざけるために役立ち、
「怒り」の情動は敵を威嚇し追い払うために役立ちます。

情動に伴って起きる体の反応は動物にとって意味があります。

ネズミは恐怖を感じると体をこわばらせ動かなくなります。
これをフリージングといいます。
おそらくこれは自分の気配を消して捕食者に見つかりにくくする
効果があるのではないかと私は思います。

また、恐怖や怒りを感じているときに分泌されるアドレナリンは交感神経を興奮させ、
体内の血流、呼吸、感覚器などのすべてが
「闘争か逃走か」を行うのに適した状態に変化します。


◆欲求の正体はその欲求に関連する快情動と不快情動である

一般に、
欲求が満たされないと不快情動が起きて動物はその状態を避けるようになり、
欲求が満たされると快情動が起きて動物そのような行動をより取るようになる
のではないでしょうか。
すべての欲求の正体は、その欲求に関連する快情動と不快情動であると私は思います。

例えば、動物はおそらくみな「安全な状態でありたい」という
欲求を持っていると思います。
その正体は、危険が近づいた時に起きる「恐怖」という不快情動と、
危険が去った時の「安堵」という快情動でしょう。

生理的欲求も同じです。
例えば、のどが渇いた時には独特の不快感が生じ、
その状態で水を得た時には独特の心地よい感覚が生じます。
これらの感覚が水を得たいという欲求の正体だと思います。


◆動物が不快情動を避け快情動を求めるのは強化学習の機構による

動物が不快な状態を避け、心地よい状態を得るような行動を取るようになるのは
強化学習という機械学習の機構が脳の中にあるからです。
大脳皮質−大脳基底核ループと呼ばれる脳の中の重要な構造が
強化学習の機構であることが今日ではわかっています。

これで「欲求」という、形のない得体の知れなかったものが、
機械的に実現可能な、情動と強化学習という部品に分解できたことになります。

しかし、欲求に関連する機構はこれですべてではありません。
話はまだ続きます。


◆条件刺激と情動を結びつける場所は扁桃体である

快情動や不快情動を引き起こすものはなんでしょうか。
これには2種類の刺激があります。
古典的条件づけでいう無条件刺激と条件刺激です。

まず無条件刺激について説明します。
これは生得的に作り込まれている神経回路によって
情動を機械的に引き起こす刺激です。

例えば高いところに立つと思わず足がすくみ恐怖を感じます。
おそらく「自分が高いところにいること」を機械的に検出する機構があるのでしょう。
例えば、地面が遠い距離にある状態を検出する機構は、
重力センサー(耳石)と簡単な視覚情報処理で実現可能なはずです。
そのような機構がもしあるならば、「遠いところにある地面」が、
恐怖の情動を引き起こす無条件刺激ということになります。


動物は、もともと情動とは無関係だった刺激に対しても、
学習によって情動反応を示すようになります。
この情動とは無関係だった刺激を条件刺激と呼びます。

例えばラットにベルを鳴らしてから電気刺激を与えることを繰り返すと、
ベルを鳴らすだけでフリージングの反応を示すようになります。
この場合、ベルの音が条件刺激で、電気刺激が無条件刺激です。

条件刺激と情動を結びつける脳の中の場所は
扁桃体であることが今日ではわかっています。

無条件刺激や条件刺激を受けた時に実際に情動反応を表出する
役割を果たしているのは視床下部などです。


◆抽象的な概念と情動が結びつくのは、大脳皮質から扁桃体への入力があるからである

人間の感情や欲求の機構を考えるうえで興味深いのは、
ベルの音のような単純な条件刺激だけでなく、
極めて抽象的な概念が情動と結びつき得るという点です。
また、電気刺激の前のベルの音のような明らかに過去に体験ずみの条件刺激だけでなく、
体験したことのない初めての刺激に対しても
情動が引き起こされることがあるように思われます。

そこには大脳皮質の高い抽象化能力と汎化能力が関わっています。
扁桃体は大脳皮質から神経線維の入力を受けており、
大脳皮質が認識した非常に抽象度の高い状況や概念と、
情動とを結びつけることができるのです。

例えば人間は「死」を避けようとします。
しかし「死」とはきわめて抽象的な概念です。
抽象的な「死」そのものが近づいていることを機械的に検出する
神経回路を生得的に持つことは不可能です。

では、なぜ人間は確実に「死」を避けるようになるのでしょうか。
答えはやはり大脳皮質の抽象化能力と汎化能力だと思います。
人間の体は、死の方向に向くさまざまな無条件刺激で不快情動を引き起こします。
痛み、空腹、寒さ、などなどです。
すると大脳皮質が持つ汎化能力は、
死を実際には一度も体験したことがないにも関わらず、
「死に近づけば近づくほど強い不快な情動を感じる」という「法則」を
無意識のうちに発見するはずです。

ほかにも、人間はさまざまな抽象的な状況に反応する情動を持っています。
人間の情動は、高い汎化能力を持つ大脳皮質の存在を前提にして、
極めて巧妙に設計されているのだと思います。


◆人間ならではの感情や欲求もメカニズムは同じである

心理学者マズローは人間の欲求を5種類に分類しました
(マズローの欲求段階説、自己実現理論)。
マズローの分類は生物学的な観点からはわかりにくいので
私なりに欲求を3つに分類しなおしてみました。

	基本的な生理的欲求:食糧確保、安全確保、睡眠、繁殖など。
	社会生活に関する欲求:集団への所属、集団からの評価。
	能力維持の欲求:知的能力、運動能力の維持・向上。

基本的な生理的欲求は、動物の個体が子孫を確実に残すことに直接的につながる
欲求です。これは人間以外の動物もおそらく持っているものです。

社会生活に関する欲求は、個体が集団の一員として
有利に生き残ることにつながる欲求です。
集団の一員として認められ、
集団の利益に貢献し、集団から評価されるときに快情動が起こるのだと思います。
逆に、集団から阻害されたり、集団に迷惑を掛けたり、
集団から非難されると、不快情動が起こるのだと思います。
人間は高度な社会生活を営むことで有利に生き延びてきた生物です。
社会生活に関する欲求を持たない個体はおそらく淘汰されるのでしょう。

能力維持の欲求は、将来の環境悪化に備えて、
知的能力や運動能力を維持・向上することにつながる行動を無意識のうちに
取ろうとする欲求です。
食糧と安全が満たされて何もやることがなくなると、
「退屈」という不快情動が襲います。
そのときに何か行動を起こし、
それが新たな知識の獲得や新たな運動技能の獲得などにつながれば
おそらく快情動が得られるでしょう。


社会生活に関する快情動の例を考えてみます。

例えば間近に人がいて笑い合えれば「思わず」心が和みます。
心が和む、というのは快情動です。
このような反応が「思わず」でるという事実が、
そのもととなる無条件刺激を検出する機構が
生得的に作り込まれていることを思わせます。
周りの笑い声を検出する機構が神経回路として
脳内にあるとしても不思議はないでしょう。


スポーツ選手がファインプレーをすれば観衆は「思わず」歓声を上げ、
プレイヤーは「思わず」笑顔で答えます。

プレイヤーは、自分の行為がまわりに評価されたことで快情動を感じます。
歓声を無条件刺激として検出する機構があるのでしょう。
幼児でも親の歓声を聞けばうれしそうな反応をするように思います。

観客の側が思わず歓声を上げるのもまた、快情動の表出だと思います。
集団のメンバーの能力の高さに対して無意識に評価を与えることは、
集団全体の能力の向上につながり、生存に有利になります。

しかしファインプレーを検出する生得的回路はあるとは考えられないので、
これは条件刺激であると思われます。
大脳皮質の汎化能力の高さが、
ファインプレーを評価すべき対象とみなすのでしょう。


◆人はなぜ笑いなぜ泣くのか

ここまでの説明によって、人間が持つ様々な感情の正体を本当に解きほぐす
スタートラインに、ようやく立てたといってよいでしょう。

例えば、人はなぜ笑い、なぜ泣くのでしょうか。
いろいろな説明を目にしますし、
実際にこれらの感情はさまざまな状況でさまざまな役割を果たしているのだと思います。

例えば以下のような説明を思い付きます。

人の失敗や勘違いを人が笑うのは、
集団の中でお互いに間違いを無意識のうちに速やかに指摘する効果があります。
笑う側は快情動が起きるので間違いの指摘のインセンティブになり、
笑われる側は不快情動が起きるので間違いを直すインセンティブになります。
笑ったり笑われたりしてお互いの間違いを速やかに直すことができる集団は、
そうでなかった集団よりも有利に生き残れたのかもしれません。

子供が泣くのは、明らかに親に不快な状態を伝えるメッセージです。
手で涙をふく動作は遠くからでもよくわかるので親はすぐに助けに行けます。
子供は知恵がついてくるとよくウソ泣きをしますが、
涙がでないのですぐウソとわかります。
ばれないウソ泣きができる個体は本当の非常事態で助けてもらえずに
死に絶えたのかもしれません。

人間には他にもさまざまな感情があります。
それぞれに関与する無条件刺激を見い出したり、
進化論的な意味を理解するには、
神経科学、機械学習、生物学、社会学などを含む
幅広い知識を総動員することが必要そうです。


◆役に立つロボットが持つべき欲求

「人間の役に立つロボットを作る」という応用の観点からは、
好奇心の解明が重要です。
好奇心は、ロボットが知識を自律的に獲得するために不可欠な欲求です。

また、「自分を犠牲にしても人間の役に立ちたい」という欲求を持つように
ロボットの情動を設計するのも重要な課題です。
人間の喜ぶ顔を検出して快情動を起こす機構など、多くの作り込みの機構と、
大脳皮質に匹敵する高い抽象化能力・汎化能力を持った
教師なし学習アルゴリズムの開発が必要となるでしょう。


◆さいごに

神経科学の分野において情動に関する研究はまだまだ続いているようです。
しかし、少なくとも「感情や欲求の正体が全く分かっていない」
という主張が完全に間違いであることは、
もっと広く知れ渡ってしかるべきだと思います。



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