須藤定久は地圏資源環境研究部門に所属しています。
目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | HOME
茨城県南部の歴史的河川構造物を訪ねて
前へ  次へ
3.反町閘門を偲ぶ
次に反町閘門(橋)を訪ねてみよう。残念なことにこの閘門は既に姿を消してしまい、その姿を見ることはできない。しかし茨城県自然博物館に復元されたものがあり、往時を偲ぶことができる。この閘門建設の背景と経緯を、大熊(1981a,b)を参考に見ていこう。
水海道市と岩井市の間には、鬼怒川の支流である飯沼川の谷があり、素晴らしい美田が広がっている。かつてここには面積2650haにも及ぶの大きな沼があった。ちなみに北浦の面積が3520haであるので、これよりもひとまわり小さいだけの大きな沼であった。
この沼は、江戸時代享保10年(1725年)から享保12年(1727年)にかけて干拓された。この干拓にあたって、干拓地の排水を良くするために、鬼怒川への排水路のほかに、南西側の台地を掘り込んで、菅生沼から利根川へ通じる排水路も造られた。
承応3年(1665)に通水した赤堀川はその後も拡幅工事が度々行われ、鹿島灘へ注ぐ水量はしだいに多くなった。天明年間の浅間山の噴火の影響で利根川の河床が上昇したこともあり、利根川の洪水の度に飯沼干拓地への逆流が起こり、大きな被害を出していた。
慶応3年(1869年)に逆流を防止する工事が計画された。しかしこの計画は、明治維新の混乱などにより、実現しなかった。ようやく明治31年(1898年)に菅生沼の北部に反町堤防と「反町閘門(橋)」が着工され、明治33年(1900年)に完成、利根川からの逆流が防止されるようになった。
第5図
【第5図】  反町閘門の位置。
大正時代の旧陸軍による1:50,000地形図「粕壁」・「水海道」から作成した。
しかし、飯沼干拓地は排水能力の不足のために、その後も度々洪水に襲われた。第2次世界大戦後の昭和24年から昭和31年にかけて、茨城県により新たな水門や排水機場の整備などが行われ、飯沼干拓地の水害問題の解決がはかられた。
戦後のこの改修工事に伴って本物の「反町閘門」は役割を終え、その後、橋として地域の人々に親しまれてきたが、新たな橋の完成により平成3年に取り壊されてしまった。古い写真が残るのみで、詳しい資料は残されていないようだ。
最近になり、明治末期に造られた煉瓦造りの「反町閘門」に再会できるようになった。というのは、かつて反町閘門があった地点の南約2.5kmに、平成6年に茨城県自然博物館が開館、その付属施設として「反町閘門」が復元されたのである。
茨城県自然博物館は千葉県野田市から茨城県岩井市に向かい、県境の「芽吹大橋」を渡り、4km程先を右折したところにある。
博物館の南側につくられた自然観察園に一角に復元された「反町閘門」がある(【写真3】)。
長さ30m程で、「関宿閘門」のような水位調節機能はなく、通船可能な水門が3門設けられているのみである。煉瓦が真新しく、水門上の通路はモダンなタイル貼りと違和感を感じる部分もあるが、水門上部のアーチや木製扉に、往時を偲ぶことができる。近くに朽ちかけたかつての水門の扉の展示もある。
前へ  次へ
Sudo Sadahisa(2001) Three old water gates in Ibaraki prefecture, Central Japan.

HOME | 研究テーマ | 最近の発表 | 講演・会議 | 論文リスト | 用語解説

Copyright (C) 2002 Sadahisa Sudo. All Rights Reserved.