須藤定久は地圏資源環境研究部門に所属しています。
目次 | 1 | 2 | 3 | 4 | HOME
茨城県南部の歴史的河川構造物を訪ねて
前へ  次へ
(3)水閘門の建設と利根川東遷の完成
このような状況は大正時代まで続いた。土木技術の進歩により、関宿水閘門が大正7年(1918年)着工し、昭和2年(1927年)竣工した。工期9年に及ぶ大工事であった。
土木技術が進歩したと言っても、まだ当時は大型建造物は煉瓦で造られ、コンクリートは煉瓦の目地として使用されていた。このため鉄筋コンクルートの技術もなく、コンクリートの大きな塊を造ること自体が大きな冒険であった。
コンクリート製の堰体の要所要所に強度確保のために花崗岩のブロックが埋め込まれるなど、随所に当時の技術者の苦心の跡が見られる。
この水閘門の完成後、昭和3年(1927年)権現堂川が締切られ、利根川の水はすべて赤堀川を流下するようになった。逆川が改修されて、江戸川は境町の上流側で赤堀川に接続された。
この結果、赤堀川は境町の上流側で二つに分かれ、一方は太平洋に注ぎ、もう一方は江戸川に入り東京湾に注ぐこととなった。江戸川の入り口に設けられた関宿水閘門が江戸川への流入量を調節するようになり、昭和4年(1928年)棒出は廃止され、ほぼ現在のような姿が完成したのである。
関宿水閘門ができる前と、現在のこの付近の川の流れや沼の分布を【第3図】に示した。関宿水閘門の完成によって川の流れが整理され、多くの湿地や沼が干拓され、この付近の開発が進んだことが読みとれる。
第3図
【第3図】  関宿閘門の建設と河道の変化
旧陸軍・国土地理院の明治時代及びの現在の地形図から作成した。明治中期には沼や池・湿地が多数散在していたが、現在はほとんどなくなった。利根川の河道も整理され、明治始めに決められた県境にのみ当時の河道の跡が残されている。明治時代の古地図については地図資料編纂会(1989)によった。
東京方向からは国道4号線バイパスを北上、埼玉県幸手市で右折して関宿橋で江戸川を渡り、2kmほどで千葉県立関宿城博物館の入り口がある。この博物館をまず覗くと良い。上に紹介したような資料の展示があり、天守閣の上からまさに利根川と江戸川の分岐点、そしてその左手に関宿水閘門を眺めることができる。これを眺めたあと、散歩がてら関宿水閘門を訪ねてみよう。
利根川から江戸川の入り口は川中島があり、2つに分かれている(【第4図】)。博物館から高水路を橋で川中島へ渡る。高水路の入り口には低い堤防が設けられており、通常は水が流れることはできない。洪水時、利根川の水位が上昇してこの堤防を越えたときにのみ水が流れる。
第4図
【第4図】  関宿閘門付近の地形図。
国土地理院発行の1:25,000地形図「下総境」の一部に加筆。
川中島の先に低水路がある。低水路は常時水が流れる水路である。関宿水門、正確には関宿水閘門はこの低水路に設けられている。
水閘門とは、水門と閘門が併設されていることを意味している。水路の中央部は水門で、ゲートは8つある。川の右岸の堤防下に閘門がある。(写真1写真2
幅10m、長さ100m程の通船用水路の上下流両側に水門が設置されている。江戸川を遡航する船は、下流側の水門を開けてこの水路に入り、水門を閉じる。水路内に水を注入して水位を水門の上流側の水位と一致させ、上流側の水門を開け、進行する。こうして船はこの水門を通過するが、現在は特別な場合を除いて、使用されていないようだ。
水閘門の上を渡りながら、コンクリートの壁に埋め込まれた花崗岩や水門の脇のかつての洪水での水位の記録を眺めると、この水閘門を造り、守って来た人達の努力が偲ばれる。
前へ  次へ
Sudo Sadahisa(2001) Three old water gates in Ibaraki prefecture, Central Japan.

HOME | 研究テーマ | 最近の発表 | 講演・会議 | 論文リスト | 用語解説

Copyright (C) 2002 Sadahisa Sudo. All Rights Reserved.