今清水 正彦(Masahiko Imashimizu)
研究概要
私たちが研究しているのは、生物に特有の分子機能です。それは、分子間相互作用やイオンとの相互作用、化学エネルギーの供給によって、熱運動の中から特定の(機能につながる)構造状態が選ばれやすくなるという仕組みです。具体例として、RNAポリメラーゼによるDNA転写の一過程(基質の取り込み)を考えます。活性中心には正しい基質と誤った基質の双方が拡散によって到達しますが、方向性をもつ水素結合を適切に形成できる正しい塩基が入った構造のみが十分に安定化されます。その結果、正しい基質の取り込み確率が高まります。量的に見ると、転写の読み誤りは10万回に1回しか起こりません。生体分子機能の本質は、熱揺らぎと同程度のエネルギースケールの中で、桁違いに高い選択性が生み出される点にあり、それが正確な遺伝情報の複製やタンパク質機能の発現を支えています。
正しい基質の取り込みでさえ熱揺らぎの影響を強く受けるエネルギー差の上に成り立っていることを踏まえると、高い選択性は自由エネルギー差だけでは説明できず、その機構は未解明です。この高い選択性につながる構造遷移の起こりやすさを決めている要因として、私は水和水の関与に着目しています。言い方を変えると、水を単にランダムな熱運動を与える媒質としてではなく、生体分子表面との相互作用を通じて揺らぎに偏りを生み出す要因の1つとして捉えています。生体分子表面の構造や電荷分布は、水和水を含んだ水素結合ネットワークの揺らぎに時空間的な不均一性を生み出します。しかし、水和水の寄与は意外なほど明らかになっていません。
その関与を実験的に検証するためには、水和水の動的特性に選択的な摂動を与える外場が必要です。そのような理想的外場の実現は無理かもしれませんが、それに近い外場としてサブテラヘルツ(sub-THz, 0.1–0.3 THz)帯の振動電場を用いるアプローチを考案しました。これまでに、高強度sub-THz波照射と分光学的・生化学的測定を組み合わせた実験手法を開発してきました。生体分子表面のナノスケールの電荷分布の影響を受ける水和水では、水素結合拘束とそれに伴う運動の相関性が時空間的に不均一であり、そのような不均一な水和水の運動は、複数の配向緩和成分、あるいは高周波側のDebye型(過減衰)配向緩和からのずれとして観測されます。特に、水素結合拘束が相対的に弱い水分子はサブピコ秒から数ピコ秒の時間スケールで配向揺らぎを示し、その揺らぎはsub-THz帯と時間スケールで対応するため、この周波数帯で相対的に大きな誘電応答を示します。一方で、水素結合ネットワークにより強く相関した協同運動を示すバルク水や、生体分子表面に強く束縛された水和水の配向緩和は、より長い時間スケールに対応するため、sub-THz帯での応答は相対的に小さいと考えられます。その結果、sub-THz振動電場の影響は、生体分子表面近傍の水素結合拘束が弱い水和水に、より強く現れる可能性があります。
言い換えると、水和水本来の熱運動に外場によって誘起される応答が重なることで、水和水の熱揺らぎの統計的性質がわずかに修飾され、その効果がナノスケールの生体分子界面近傍に偏って現れる可能性があります。ここで外場をsub-THz振動電場にした場合、その応答は純粋な配向分極やイオン分極としては捉えられなくなり、現象として興味深い特徴が現れます。外場の時間スケール(sub-THz帯における周波数や照射時間幅)と目的とする水和ダイナミクスや生体分子機能の時間スケールとの詳細な対応を考慮しつつ、この空間的不均一性を利用することで、特定の生体分子構造への遷移確率を制御できるのではないかと考えています。こうした物理学的に定義された外場による制御が可能になれば、応用が広がると同時に、分光学や遺伝学において培われてきた摂動と応答の枠組みを生体分子機能学へと拡張し、水中で発現する生体分子機能の微視的機構を解明する道が開けると考えています。この新たな学際的取り組みを、外場としてテラヘルツ波を用いることから、テラヘルツバイオロジーと呼んでいます。
研究会
私自身が不完全にしか理解していない問題にも思い切って手を伸ばす学際研究を進めるには、理論や現象を説明する言葉に関するいくつもの困難を乗り越える必要があります。関係分野で深い専門知識をもつ科学者との議論を目的に、二つの研究会を立ち上げました。これらの研究会をはじめ、各方面で専門知識をお持ちの皆様からいただいた貴重なご助言や議論、実り多い共同研究に深く感謝いたします。
- テラヘルツバイオロジー研究会(テラバイオ研究会) ホームページをご覧ください。
- 京都テラヘルツ生物物理研究討論会(京テラ会) 私以外の参加者の先生方は以下です。
嶋本 伸雄
国立遺伝学研究所 名誉教授
総合研究大学院大学 名誉教授
奈良 重俊
岡山大学 環境生命自然科学研究科 特命教授(研究)
関西学院大学 理工学研究科 客員教授
戸田 幹人
兵庫県立大学 大学院情報科学研究科 客員研究員
北海道大学 電子科学研究所 客員研究員
神奈川大学 工学研究所 客員研究員
主な研究成果(一般向け)
- サブテラヘルツ波照射によるDNA塩基対形成の促進
細胞分子工学部門 トピックス 2026/02/27 - サブテラヘルツ波が水とタンパク質のミクロな混合を加速
プレスリリース 2023/05/22 - サブテラヘルツ波照射によるタンパク質への非熱的作用の観測
細胞分子工学部門 トピックス 2021/04/23
所属(連絡先)
国立研究開発法人 産業技術総合研究所(AIST)
細胞分子工学研究部門 細胞機能デザイン研究グループ
つくば中央第5, 1-1-1 東, つくば市, 茨城 305-8565
Eメール:m.imashimizu*aist.go.jp(*を@に変更して送信下さい。)