Subject: [PSEUDO] The Poet died when QM was establishedとしてネットニュースに発表したものです。 KEKの森田さんに気に入っていただいて、エッセイに載せてもらっていますが、水谷の所属が変わったこともあり、 少し手直ししてこちらでも公開します。
もし私がタイムマシンを使えるのなら、1900 年のヨーロッパに行き、 スイスのベルンあたりに居を構え、30 年ほど暮らしてみたいと思っ ています。
詩人の死と量子力学----- ちはやふる オルフォイスのソネット -----Rainer Maria Rilke は 1875年12月4日プラハに生まれた。幼年のころ 女性として育てられたこの詩人は、なぜか女性に愛され、妻の他に も女流画家や女流音楽家と親密な交際を結び、ヨーロッパ、ロシア、 北アフリカを漂泊した。主な作品を年代順に並べてみよう。
この時期、政治の世界では、1914 年に始まった第一次世界大戦が 1917 年のロシア革命を機に 1918 年に終結を迎える。翌年結ばれ たヴェルサイユ条約のもと、表面的な平和がしばらく続く。一方、 物理学の世界では歴史上驚異の発展が見られた。
特に 1925 年から1926 年の発展はなんと形容したらいいのだろう。 機が熟していたとはいえ、10 年間はかかりそうな展開ではないか。 Schrödinger 方程式が発表された同じ年に3人が独立に近似法を 考え付くなんて尋常ではない。昔は 1 年が長かったのだろうか? なんらかの形で押えつけられて圧力を高めていた思考の制約がはず れたような勢いである。 ここで注意しておきたいのは「不確定性原理」の時期である。初等 的な量子力学の教科書では冒頭に説明されるこの原理は、量子力学 の定式化が終わってから提出された。ランダウ=リフシッツの教科 書では脚注として明確に書かれているので確認していただきたい。 不確定性原理は最後の仕上げでなければならなかった。量子力学を 作り上げるためには、「これ以上の測定はできない」という否定的 な原理は創造のエネルギーを削ぐものである。すべての基礎ができ あがったとき、もうよかろうと付け加えられたと考える。 リルケの詩業と量子力学の発展には時期的に見て密接なつながりが ある。もちろん、有名な『形象集』「秋」の一節(木の葉が落ちる /遠くからのように)や晩年に「重力」と題した詩を書いているこ とから、相対論との関連も見て取れるが、今は触れない。量子論の 発展にもっとも寄与したとと思われる作品は、1922 年に書かれた 『オルフォイスへのソネット』であろう。この作品でたびたび現れ る「二重性」への言及は、粒子性と波動性をもつ電子の性質につな がり、ディオニゾスの巫女たちに八つ裂きにされたオルフォイスの 頭が歌(波動)を歌い続けるイメージが、de Broglie に物質波の アイデアを呼び起こしたと私は睨んでいる。 生きているものはみな 「生と死」を「粒子と波動」と置き換えれば、真実の姿は対立する かに見えた二つの概念を統一したところにあることが詩人の主張で あり物理学の進む方向でもあったのだ。『ドゥイノの悲歌』では、 静かに世を去った少女ヴェーラのなかに生と死の避けようのない混 じり合いを歌った。『オルフォイスへのソネット』ではその運命に 逆らい、死の国へ亡き妻オイリディケを連れ戻しに行ったオルフォ イスがモチーフとなった。リルケはオルフォイスが二重の国を知る 統一者であると歌う。「二重の国」とは、もちろん「生の国」と 「死の国」である。オルフォイスはその歌声(=波動)で、二重性 を統一するのだ。 彼はこの地上のものだろうか 二重の国で歌声が ただ一つの波よ 私はオルフォイスは歌と竪琴の名手であることがソネット一の1で讃え られている。リルケは、あらゆる歌声をオルフォイスであると言う。 歌うものがあるとき原文では、 Ein für alle Male ist Orpheus, となっていて、es singt は誰かが歌っているのではなく、歌がそこに ある状態と解釈できる。歌声=オルフォイス、すなわちここで二重性の 統一者は、波動であると言うのである。 オルフォイスの最後は凄絶である。体は八つ裂きにされるが、頭は歌 いながら海を漂い、レスボス島に流れ着いたという。こうしてオルフォ イスは宇宙の万物の中にとどまり、そこから今もなお歌っているのだ。 おんみの歌はライオンや岩の中に 万物の中に存在するオルフォイスの断片を物質を構成する素粒子と考 えることもできる。まさしく量子力学的世界観である。粒子の歌声は 波動関数であり、物理を志す者は、オルフォイスの歌声を波動関数と して聴くのだ。 「生と死」すなわち「粒子と波動」はソネットの中で何度も現れる。 例えば、死の象徴であるローマ時代の石棺に草花や蝶を見た (ソネット一の10)という具合に。しかしそれは現れ方、見え方が違うだ けで、一つの実体であることもまた詩人は認識していた。 その息吹をお前たちの頬で二つに分かつがいい リルケは視覚的な詩人と言われており、パリでのロダンとの交友か ら彫刻的なリジッドな芸術を身につけた。その後、ピアニストのハッ テンベルグ夫人との出会いにより音楽(波動)に目覚めたのである。 しかし、ハッテンベルグとの交際は発展せず、結局は破局を迎える。 これは、リルケが最終的には音楽、すなわち量子力学を受け入れる ことができなかったことを暗示しているのかもしれない。 オルフォイス神話では冥界の王との約束を破って途中で後ろを振り 返り、そのために妻を現世に連れ戻せなかったという重要なエピソー ドがあるが、リルケのソネットでは取り上げられていない。これは 何故だろうか?このエピソードは、ハイゼンベルグの不確定性原理 を想起させる。電子の本来の姿は観測によって失われてしまうのだ。 この原理はリルケにとって、波動によって世界が統一されるイメー ジを根底から覆すように思われたのかも知れない。 私たちの本当の位置を知らないままで 波動の形式で素粒子が記述されるように、神話のオルフォイスも音楽 の力で妻の姿を知るべきであったのだろう。 詩人の死後、ようやく不確定性原理が提出されたことからも詩人の 思想と物理学の進展に何らかの関連が読みとれる。皮肉なことに不 確定性原理が量子力学の定式化の最後に生まれたことは、前に書い たように量子力学の誕生にはプラスであったと私は思えるのだ。そ う考えるとハイゼンベルグとハッテンベルグの名前の相似も偶然と は思えないのである。ハッテンベルグ夫人はリルケが彼女に出した 最初の手紙で、「私が夏にミュンヘンで会ったドクター・フォン・ ハッテンベルグ氏は、貴女の親戚の方でしょうか」という単純な質 問に答えていない。これは、ハッテンベルグが偽名であり、それが ばれないように用心したのであろう。彼女はおそらく量子力学を推 進するハイゼンベルグがリルケの詩の影響力を利用しようとして送 り込んだ工作員ではないだろうか。詩を通して当時のヨーロッパ知 識人に影響を及ぼしてきた詩人は、意識していたのかどうか不明だ が、量子力学の爆発的な発展になんらかの形で利用されていたと推 測できるのである。 墓碑銘に刻まれた詩は、詩人の理解を超えた量子力学の不確定性と いう矛盾を暗示、告発していると見てもよい。 薔薇 おお 純粋な矛盾 1926 年の暮れに一人の詩人が永遠の眠りについた時、矛盾に満ちた 不確定性の時代が幕を開けたのであった。1929 年の世界恐慌、ファ シズムの台頭へと進んで行くのである。 |
リルケの詩は彌生書房『リルケ全集』第三巻、および『リルケ詩集』 (新潮文庫)の富士川英郎氏の訳文に依った。この他、源哲麿訳 『ベンヴェヌータとの愛の手紙』(河出書房新社)、加藤泰義訳著 『オルペウスに捧げるソネット』(芸立出版)を参考にした。小冊 子『レオナルド ダ ビンチの考えなかったこと』No.19 に同様の珍 解釈が載っているかも知れないが、それは水谷が学生時代に書いた もので、量子力学を勉強していた頃からの妄想なのである。
この小文は「ちはやふる」と副題にあうように、古典へのこじつけ解釈のお遊びである。よくあるTVの教養番組のようなつじつまあわせにもかかわらず、一旦このような考えを形にしてみるとなにかしらの説得力を持ち始めたのは意外であった。つまり、人間の精神の全領域に影響を及ぼしたパラダイム・シフトがこの時代のヨーロッパには存在したのだという強い確信が私の心の中に生まれたのだ。歴史は退屈な事実の羅列に過ぎないと思っていたのだが、この足場から眺めてみると 19 世紀後半から始まった科学技術の発展が芸術、哲学に影響を及ぼし、量子力学という大きな成果を生みだす精神の流れとして理解できるのである。
例えば1839年の写真機の発明が絵画の分野に及ぼした影響を一口で言えば、「写真を越えた表現」である印象派を生み出したことだろう。職人的な写生技術は機械にとって代わられ、見る人の感情が大きく画面に表れることが認められるようになったのである。「事実」を写す技術によって、人は「真実」の多様性に気がついたと言えるかもしれない。ある種の「真実」は観察者により異なった形で表現される。このことは、人間の心の中の古典力学的リジッドな世界観を揺さぶり、新しい認識をうけいれさせるための下準備になっていたのではないだろうか。
哲学、文学における実存主義もこの精神の流れの中に位置づけることができる。『マルテの手記』の中でリルケは、
「僕には僕を覆う屋根がない。雨は僕の眼にしみる」と書いている。ヴェルレーヌが
「都に雨の降るごとく、わが心にも雨ぞ降る」と、はっきりと自分の心と外界を区別して唄ったのと違い、リルケは外界とのしきりがもはや存在しないと認識し、観察者である自分も観察されるものと一体として記述したのである。そしてハイデガーは、人間存在を「実存」Existenz ととらえ、文字どおり「外に出ること」と唱えた。(加藤泰義著『リルケとハイデガー』)
量子力学の誕生の背後には、物の見方に対する人間の精神の変革があったと私は思う。主体と客体を明確に切り分ける古典的な足場から、主体が客体に影響を与える足場へ、さらに主体と客体の区別が難しいいわば東洋的な足場へと進んでいく。その流れの中で量子力 学という革命的な形式の自然の描像が提案される。学生が初めて量子力学を学ぶときのバリアの高さを考えれば、この概念はある程度の心の準備がなければ受け入れるのが難しいものだろう。だから、その発展が一人の天才の卓見に導かれたわけではなく、同時に多数 の研究者が似たようなイメージを持って共同作業のもとで進められたのは、ちょっとした謎なのである。それは、芸術・哲学を通して多くの人間がすでにこの新しい考え方になじんでいたからである--ついこんな歴史の読み方をして妄想を膨らませてしまった。